カッターナイフ 中村太一
生徒全員を運動場に集めて行われる月一回の全校集会で、校長先生が不審者に注意するようにと呼びかけている。うなるように鳴くセミの声に負けまいと拡声器のボリュームは大きめ。直射日光を受けて光る生徒たちの白シャツが眩しく、タカは額に汗を滲ませ、ずっと目を細めていた。
校長の口から不審者の詳細は述べられなかったが、不審者がカッターナイフを手に街を徘徊しているとの情報は、普段テレビも見ない、スマホも持っていないタカでさえ知っていた。昨夜、兄である昂一が興味津々に話していたのだ。
「カッターナイフで何ができるんだろうな。文房具のカッターだぜ。そんなんじゃ、皮膚もまともに切れないよ」
もっと殺傷能力の高い刃物を使うべきだと言わんばかりに語る兄は、学校で見せるのとは異なる表情で笑った。
タカは額に浮いた汗を手で拭った。校長先生の話が終わり、全校集会は表彰の時間になった。全校集会で表彰される生徒は、クラスの列の先頭で待機することになっている。三年生のクラスの列の先頭に昂一が立っていた。いつもなら背の順で並んでいる列の先頭に、背の高い昂一が来るとその後ろ姿は嫌でも目立った。
タカは先日の兄との会話を思い出す。
「兄さんなら、カッターじゃなくて、何を使う?」
「そういうことじゃないんだよ、タカ。刃物を使ってやるのは野蛮だ」
刃物を使わず殺傷するのは、いいのか。
家にいる時の昂一は、軽いものなら通り魔事件から、ありとあらゆる事件を調べた。猟奇的殺人事件、歴史的疫病、独裁者による大虐殺にいて……。昂一自身、そういう趣味は異常だという自覚があるらしく、決して外でその話はしなかった。ついうっかりタカが兄の奇妙な趣味を話そうものなら、どんな理屈を使ってでも、聞いた人の頭から狂気的な印象を取り除こうとした。そういうとき昂一がよく使う弁解は次のようなものだ。
「猟奇的事件について調べているのはタカ自身であり、兄である自分は友達の少ない弟を気遣って家庭内で話を合わせているだけ」
「タカは口数が少なく自己表現が苦手で、人気者の兄に関する作り話をすることでしか他人の興味を引けない」
「そういうことだから、弟のちょっとした嘘も、おお目に見てやってくれ」
昂一の弁解はよく効いた。周囲の信頼を勝ち得ているのは昂一だった。たいていの人はタカより昂一の言うことを信じる。
あと一年もすれば兄は高校に進学する。その一年後、絶対におれは違う高校に進学する。それからはもう兄とは無縁の生活を送ろう。
中学三年になった兄の昂一は、もはや一人の人間として完璧といえるような振る舞いを身につけていた。勉強もスポーツもできる、人付き合いもできる。嫌味にならない程度に教師の信頼を得る。ときたまドジを踏んで隙をつくり、周囲を和やかにする。中学生らしい冗談を口にする。
全校集会の表彰台に昂一が上がると女生徒の息を飲むような声が聞こえた。屈託なく兄を尊敬できたら、兄を自慢に思えたら、どれだけいいだろうか。
いつからかタカは、兄の姿を疑いの目で追い続けるようになった。
全校集会が終わり、バラバラに校舎に戻る生徒の合間から、タカは兄を見ていた。舞い上がる砂埃が陽の光を受けて視界全体がもやがかって見える。首をつたう汗に砂がこびりつく。
昂一の周りに人が集まってきた。誰もが屈託ない笑顔を昂一に向けていた。
雄平が人混みの中をまっすぐこちらに近づいてき、タカの肩を叩いた。
「あんまり気にすんなよ」
「気にしてないよ」
優秀な兄と自分を比較して劣等感を抱いている、そういう単純な話なら、こんなに嫌な思いをすることはない。自慢の兄として見ることのできない薄気味悪い何かが昂一にはある。
「何考えてるにしても、目で追いすぎだ。気持ち悪いぞ」
校舎の中に入ると、外との明るさの違いに目がくらくらした。タカは雄平と一緒に教室に戻った。
☆
「どうしてカッターナイフなんだと思う?」
その日の夜、兄弟二人で使っている子供部屋で、昂一が訊いた。
「ふつうのナイフを持ってなかったからじゃない?」
「甘いな。まず、今のおれの質問に馬鹿正直に答えても仕方ない。質問に答える時は、それが本当に答えるべき質問かどうかを考えないとダメだ。カッターを手に持って徘徊するという行為に行き着くまでのストーリーを考えろ。どうして手に持っている必要がある。ポケットに入れておけばいいじゃないか。彼はわざわざ手に持っている。特定の誰かを殺傷するのが目的なら、その誰かに警戒されちゃ近づけない。そもそもカッターで誰かを殺傷するなんて、ふつう考えない。もっと良いものを使うだろう。タカ、このことを聞いた上で、彼の目的はなんだと思う?」
「わからない」
昂一は不審者のことを親しげに『彼』と呼んだ。タカはそのことが気になった。たいした事件でもないのに、どうしてこの不審者を気にするのか。
「考えろ」
昂一が語気を強めて言った。
「目的なんてないんじゃない? ただ単にむしゃくしゃして、誰でもいいから切りつけたいんじゃない?」
あの時の兄さんみたいに。そう言いそうになるのをタカは踏みとどまった。
「彼がそんなことを考えるだろうか。彼の気持ちになって考えてみろ。包丁や日本刀じゃなくて、カッターを持つことで彼が得することがある。カッターを手に持っていることで彼が得することがある」
「兄さんはどうしてそんなに不審者のことが気になるの?」
昂一は口角をあげてタカを見た。学校や親の前で見せるのとはちがう種類の笑顔だ。
「タカならいつかわかるよ」
タカは昂一の目をまっすぐに見返した。兄が何を考えているのか、まったくわからない。兄の背後にある本棚には、中学生らしい漫画や児童小説が並んでいた。タカはそれがただのカモフラージュであると知っていた。
「タカ、考えつづけろよ。『わからない』なんて言葉は使うな。すこしわかったからって、簡単にわかったような気になるなよ」
もう寝よう、と昂一が部屋の電気を消した。
☆
まだ昂一の振る舞いが完璧ではなかった頃、昂一は一回だけ大きな失態をしたことがある。
タカが小学校二年のころ、当時小学校三年だった昂一は、担任の教師を素手で暴行し、軽度の脳挫傷を負わせた。担任の教師は身長170センチ後半のガタイのいい男性だった。当時身長150センチ程度の昂一が、なぜ自身よりも一回り以上体の大きい男性教師に負傷を負わせることができたのか。
昂一は真正面から男性教師に飛びかかり、顔を殴りつけたという。放課後の出来事で教室には二人以外に誰もいなかった。騒ぎを聞きつけた他の教師たちが教室に乱入しその場を収拾させた。昂一には一週間の自宅での保護観察処分を課された。加害者が小学校三年生である点を考慮した学校側は、事件の実態を生徒や保護者には知らさなかった。したがって、このことを知る者は少ない。タカが昴一に、なぜこんなことをしたんだと訊くと「声が聞こえたんだ」と意味深長な返事をされた。タカはそれ以上訊かなかった。翌年、暴行を受けた男性教師は転勤になった。
男性教師に暴行する昂一を廊下から目撃し、他の教師に通報したのは、雄平だった。
「あのときのお前の兄ちゃんは、たぶん一生忘れないと思う」
雄平はその後、学校側から他言無用を言い渡され、当時から既に誰からも一目置かれていた昂一の裏の一面を知る数少ない人のひとりとなった。
お前の兄ちゃんは、なんというか、怖いよな」
昂一に対する得体の知れない感情を共有できる人として、タカと雄平は、頻繁にではないが、ときたま神妙な会話をする仲になった。
兄の一面を知っているのに、よくその弟である自分に話しかける気になったな、というのがタカの正直な気持ちだった。
一度だけ、雄平にそれについて訊いたことがある。
「お前も兄ちゃんが怖いだろ? おれも怖いんだよ。一緒に『怖い』って思ってくれる人がいると安心するんだ」
雄平は照れ臭そうにそう言った。
☆
ついに例の不審者の被害者が出たようだ。
被害者は隣の中学二年生の男子生徒。朝寝坊し、一人で通学路を投稿していた被害者は、背後から忍び寄ってきた加害者にカッターナイフで腕を切られた。出血はしたものの、全治一週間程度の軽傷、傷跡は残るかもしれないが、命に別条はなく、後遺症もない。
被害者は隣の学校の生徒だったが、タカの教室でもすぐすべての話題をさらった。二時間目の授業が終わると、にわかに事件のことが噂になりなりだし、やがて誰もが事件について話すようになった。休憩時間、スマホで事件を知った生徒が、すぐ話題にあげたのだ。つい数十分前に起きたばかり事件で、これ以上にホットな話題はなかった。
加害者はジーンズに黒っぽいティーシャツを着て、マスクをつけていた。身長180センチ以上の大柄な男性。奇妙な点は、加害者は男子生徒を切りつけた後、「ごめんね」と一言、声をかけたのだという。「ごめんね」の部分は語る人によって内容が異なった。「ありがとう」と言ったと語る人もいれば、「殺してやる」と言ったと語る人もいた。「友達になろう」「痛い?」など、噂を語る人によって一言の内容は一致しなかったが、共通しているのは、『被害者の目を見て言葉をかけた』という点と、そして『声をかけた後、加害者は煙になって消えた』という信じがたい点だった。
その後、現場近くを通りがかった女性が通報し、被害者は警察に保護された。全ての噂の発信源は、無論、被害者の男子生徒だった。
男子生徒は切りつけられた後、煙になって消える加害者を見て、近くを通りがかった買い物帰りの主婦に「男が煙になって消えた」と興奮した様子で語った。話しかけられた主婦は、意味不明に思ったものの、出血している男子生徒の腕を見ると、近頃噂になっている不審者のことを思い出し、すぐさま警察に通報した。被害男子生徒が腕を切られたことよりも、加害者が煙になって消えたことを先に話したことから、傷の軽傷度合いと、信じがたい光景を目にした衝撃の強さが伺える。
登校中に切りつけられた男子生徒はすぐさまスマホで友人にその状況を伝え、SNSにも状況を綴った投稿をした(無論、すぐに投稿は削除された)。これにより、爆発的に噂が広まった。
その後、警察による捜査が開始されたが、加害者はまだ捕まっていない。
事件を受け、学校は急遽すべての授業を取りやめ、臨時休校とすることに決めた。登校している生徒は集団下校することになった。
タカは家に帰りたくなかった。家に帰れば、興奮した兄から質問攻めに遭うことが想像できたからだ。「どうして腕を切ったんだと思う?」「どうして声をかけたんだと思う?」など。兄はきっと、被害にあった男子生徒のことを考えず、楽しそうにこの事件のことを話すだろう。
集団下校の列に加わって帰宅したタカは、リビングのソファに座った。両親とも働きに出ているので、昂一が帰ってきたら兄と二人の時間を過ごさなくていけない。外に出るなと言われているので、外出するわけにもいかない。すぐ近くに加害者が潜んでいるかもしれないのだ。
加害者はなぜ男子生徒を切りつけたのだろう。「カッターを持つことで彼が得することがある」と昴一が言っていたが、そんなことがあるのだろうか。むしろ被害者の方が不幸中の幸いだった。もしカッターナイフではなく、殺傷能力の高いナイフだったら、軽症では済まなかった。
カッターを使うことで加害者が得することは何か。
いや、待て。
タカは思った。これは本当に答えるべき質問なのか。
カッターを使うという幼稚な選択肢しか、彼は持ち合わせていなかったのではないか。包丁や果物ナイフを使うという発想ができないほど、未熟だったのではないか。だとすれば、彼には成長の余地がある。次はもっと巧妙な手を使い、深刻な事件を起こすのではないか。
☆
ソファで寝てしまっていたようだ。ふと気がつくと外が暗くなっていた。リビングには自分しかいなかった。
子供部屋に行く前に玄関に行って靴を確認する。兄は家にいないようだ。両親もまだ帰ってきていない。
子供部屋に入り、電気をつけた。
兄がいつも座っている椅子に座ってみる。
本棚を眺めた。表面的には漫画や教科書が並ぶ、よくありそうな中学生の本棚。
タカは手前の本をごっそり抜き出した。一段奥には猟奇的殺人や大虐殺に関する本が並んでいる。タカはそのうちの一冊を取り、机においた。こんなものの何が楽しいのか。
表紙を見つめていると、その時、どこからか声がした。
―……っ、……っ。
何を言っているのかわからなかった。だが、この声は自分に話しかけている。タカはそう直感した。
声は興奮した様子で自分に話しかけている。そして、言いたいことがうまく伝わらず、もどかしさを感じている。声から焦燥感が伝わった。
タカは部屋を飛び出した。一軒家の自宅を出ると、声は大きくなった。しかし、まだ何も聞き取れない。タカは声の大きくなる方へ走っていった。
夏の夜は全身に湿気がまとわりつくかのようだった。昼に比べると暑さは和らいでいたが、走り出して一分もしないうちに身体中から汗が吹き出すのを感じた。
いくつかの道路を突っ切り、橋を渡った。街灯の光を通過するたび、汗を吹き出すタカの姿があらわになった。
気がつくと見覚えのないところまで来ていた。家からそう遠くないはずだ。家を出てからせいぜい五分ぐらいしか経っていない。
――そこで止まって
ついに声をはっきり聞き取った。タカは止まった。大きく呼吸をして息を整える。汗は引きそうになかった。あたりは静かだった。自分の心臓の音が大きく聞こえた。
――そこの角を曲がって、一つ目の路地を右に入ってください
タカは言われた通りに進んだ。路地に入った瞬間、静寂な夜を切り裂くように、甲高い音が鳴り響いた。タカは思わず耳を塞いだ。その音は鳴りつづけた。
路地の奥に、公衆電話があった。先から響いていた音は、電話の呼び出しベルだった。
教科書やテレビでなら見たことはあったが、実物の公衆電話を見たのははじめてだった。公衆電話にもいちおうベルは付いているが、基本的に発信だけに使われるため、鳴ることはないと教わった。
タカは公衆電話に近づき、受話器を取った。ベルは鳴り止んだ。受話器を耳に当てた。
呼び出しベルの鳴る公衆電話を受け入れ、そのベルは自分を呼んでいると、自然に考えている自分にむしろ驚いた。
「昴一さん。よかった。なかなか繋がらなかったから、心配したんですよ」
タカは全身が凍りついた気がした。
受話器から雄平の声がした。
「昴一さん。たしかにあなたの言った通り、カッターの加害者は人間じゃないみたいですよ。でも、だからと言って、昴一さんや僕みたいな人とも違う。あいつは人間じゃない。でも、だからって怖がることはありません。あいつはまだ幼い。このこともあなたの推理通りですね。僕ら二人でなんとかできると思います」
「雄平、いったい、どういうことなんで?」
タカが尋ねると、受話器の向こうが無言になった。そして、思い出したかのようにガチャンと音がなり、電話は切れた。
頭が混乱した。何がどうなっている。雄平はなぜ昴一と話そうとしている。『人間じゃない』とはなんだ。お前は、兄のことを怖いと言っていたじゃないか。
背後から足音がして、タカはいきおいよく振り返った。
そこに昴一が立っていた。
「タカ、遅かったじゃないか」
昴一が一歩、近づいた。街灯の作る円錐形の光に入った昴一の右手が怪しく光った。その手には、血の付いたカッターナイフが握られていた。
中村太一
作家志望の社会人。円城塔や綿矢りさ、羽田圭介が好き。ツイッター→@toooooichi101
ハリーポッターに出てくる「魔法省の入口」的な雰囲気だったので、不思議な世界が広がっていく感じがするように書きました。